日記と遊ぶな子供たち

ピーという発信音のあとに、着席してください

軽音部に忘れていったもの、1選

今週のお題「わたし○○部でした」

 

 

 

私は中学、高校、大学と通して軽音部に所属していた。

 

 

軽音というと響きがいいので軽音とさせて頂いているが、中高では名前が器楽部、大学では名前が音楽部となっている。活動内容は同じなので、よりカッケェ名前を採用した。

 

 

 

 

私が通っていたのは私立の小中高一貫で、かなり規則が厳しく、携帯の所持や契約が禁止されていた。恋愛も禁止だったが、私は特に支障はなかった。

 

 

器楽部も「風紀が乱れる」とかなんかで、中三からの入部しか許可されていなかった。

 

 

 

それまでは囲碁将棋部という、インドア代表格のような部活に入っていた。それなりに楽しく、ドミノやジェンガなどをしていた。

 

 

我々にとって囲碁将棋部は、週に二回、自由に教室を貸してくれるボーナスタイムという認識でしかなかったように思う。

 

 

 

器楽部に入ろうと思ったのは、楽器弾けるやつはモテたまたまYouTubeで見た、女装してベースを弾く男性を見て「こんなゾクゾクすることがやりてえ…」という戦闘狂のような理由である。

 

 

ちょうどその時仲良かった(今も仲は良い)友人数人と見学に行ったのだが、一人が「イメージと違う」という理由で入部せず、そのまま誰も入部しなかった。女子が三人入部していた。

 

 

 

高校に上がったタイミングで、あまりにも中学と一緒すぎたため、これなんか変えないとまずいだろと思い、再度友達三人とともに入部することにした。

 

 

 

基本的には、まず曲を決め、バンドの編成を決め、各自練習をし、部活の日に全体で合わせ、ライブを行う。という流れだった。

 

 

 

気心の知れた友達ばかりだったので、今思えば本当に楽しかったと思う。演奏自体もそうだが、ライブの音響なども自分たちで行うため、「俺は今この会場を支配している」という感覚が心地良かった。

 

 

先輩方とも接する機会が多く、本当に優しくしてもらったと思う。

 

 

 

 

しかし、二年の後半あたりからコロナでライブが出来なくなり、先輩も卒業し、アルバム制作のようなものがメインになって、部活へ行く回数がめっきり減ってしまった。

 

 

当時は謎の居心地の悪さを感じていたが、今思えば「極度に女性が苦手な性格」「新たに来た後輩という存在に対してどう接すればいいのか分からない」「ライブがなくなったことで自分より後輩のほうが(編集技術など)得意な分野になった」などが起因していたと思う。

 

 

 

結局、アルバムが完成した時期にはほとんど行った記憶がない。今更顧問や後輩に向ける顔もなく、自分の逃げ癖を恨んだ。私は塾を三か所ほど逃げたまま辞めている。

 

 

 

 

卒業式の日に、顧問から我々の学年が呼び出され、完成したアルバムを受け取った。

 

 

中を見ると、手作り感あふれるCDと、そこから足掻くように、絵の上手な同級生が表紙を担当した歌詞カードが入っていた。

 

 

パラパラと捲ると、私がまだ通っていた時期に作ったページも含まれていた。曲はナンバーガールの「IGGY POP FAN CLUB」

 

 

同級生のT(一緒に上京してきたため今も遊ぶことがある)が人工芝に横になり、目にモザイクがかけられ、KEEP OUTのテープを張られている稚拙なコラ画像だ。

 

 

他にも何枚か作った気がするが、記憶の奥底に沈んで、もう私の手の届くところに無かった。

 

 

 

 

私はそのアルバムを、当時の自分の机の上に置き、何かを振り払うようにして帰った。

 

 

 

ライブ用の、ずっと真夜中でいいのにを弾くために買った5弦のベースも置いてきた。

 

 

 

ケースやバンドスコアも置いていった。これは置いていったというより忘れていったの方が近いかもしれない。

 

 

 

春までは忘れ物の連絡が来ていたが、それももう来なくなっていた。

 

 

 

家で練習するために持っていた安い黒のベース、楽器を始めようと思って最初に買ったベース。一年物のほこりを被せたまま、実家に置き去りにした。

 

 

 

 

私が軽音部に忘れていったものはなぜか、アルバムでも、5弦のベースでもない気がする。

 

 

 

 

本当の意味で、忘れていったもの

 

 

 

 

それは